昭和48年7月11日 朝の御理解
x御神訓 一、
「神は声もなし 形も見えず 疑わば限りなし 恐るべし疑いを去れよ」


 神を信ずる生活、神を信じての生活ということは天地の御恩恵を受けなければ立ち行かんのが人間であるという。それを素直に認めさせて頂く、それを素直に認めるということ。それを心にまたは(慮)に実感させて頂いての生活、これ程いわば間違いのないことはないのですけど、それをそうと信じられないところに、人間の業というようなものを感じます。
 確かに神様には、天地は声をもって、形をもって、形ではない姿、声、姿をもって私どもの前に、それを示して下さることではございません。ですから、疑えば限りがないことですけれども、「疑えば限りなし 恐るべし 疑いを去れよ」と仰せられてあります。
 私が昨夜、お月次祭の後にお話をさせて頂いて、自分一人またお話を致しましたことを、繰り返し思うて見て、どこの辺が間違うておる、狂うておるから、神様が信じられないのかというようなことを思うて見ているんですけども。
 昨日、今度講演に見えます、中山亀太郎先生の、まあ言葉とも言いますかね、そのことについて、「信心とは我心が神に向かうのを信心と言うのじゃ」というお話を聞いて頂いたんです。中山先生のああいう、私共から見たら、こんな不幸せな、不自由な生涯はなかったろうと思われる程しの難儀を背負われながら、「運命を愛し、運命を生かす」という、それが先生の信心の中心をなすものだと思うのです。ああいう人間、最高の不幸せ、両手をもぎ取られ、片足を取られての、ひどい悲しい運命に遭いながら、その運命を愛するとこう言うわけです。
 そこから確かに運命を開拓していけれる体験、運命を生かすということ、そこのところを、運命を愛するということはどういうことかというと、結局自分の心を愛する、自分の心を大切にすることだと。自分の心を大切にするということは、その心が神に向こうて進化して行くというか、進んで行くということだと。そこに自ずと運命が拓けてくる。言うならば、幸せになってくる。
 物で栄えて心で滅ぶという、まあ現代の難儀というのは、そうだと思うです。とりわけこの日本の現状というのは、経済方面でも、世界何位といわれるくらいな進展を見せておる。それでいて、どうにも出来ない難儀の様相。いわゆるこう見ると心の行き詰まり、心で滅んでおるという感じ。ですから、まずは、その心が栄えるというか、心が豊かになる。そこに豊かな世界に、豊かな物の世界にも住まわれるというのでなければならないということなんです。
 物で栄えて、折角栄えたものに、けれども、ギリギリ、心が滅んでしまう。それが人間の世界だと思う。そこで心が大事、心を大切にするということ、心を豊かにするということ、その豊かな心が運命を生かして行くのであり、豊かな世界にも、また住むことが出来るという程しのおかげを頂くために、どうしても、なら、それを信じなければいけない。いわゆる神様を信じなければいけない。
 そこで、私どもの信心が、どういう所に起点としてというか、どういうところを自分の信心の中心にしておるかと。「信心とは我心が神に向かうのを信心と言うのじゃ」とあります。人間の我情我欲の私共の姿、それから我情我欲を取って行くという姿勢、それがそのまま神に向うて行く姿。それが信心だと、果して、それで信じて信心させて頂いておるだろうか。いや神様は信じますというても、そこんところが精進されなかったら、神様を信じとるとは言えない。自分の心が神様へ向こうて、もうそれこそ一歩づつでも近ずかせてもらうことが信心だと、わからせて頂いてこそはじめて、神を信じた者の、正直な者の姿であるということになる。
 昨日、お話の中にね、聞いて頂きましたが、歌の文句に「館山」というのがあります。その文句が「浮世はなれて奥山住い 恋も悋気も忘れて居たか 鹿の啼く声聞けば昔が恋いしゅうてならぬ」という歌の文句です。浮世はなれてということは、ただ…、大体これは尼さんになった人の歌だと言われておりますけども。まあ御理解で頂きますとです、「浮世はなれた」ということは、言うならば、我情我欲を離れて我心が神に向かうのを信心だと悟らして貰もろて、という意味なんです。
 ところが、「鹿の啼く声を聞けば」ということは、もう恋も悋気もない、もう何も彼にも捨ておると思うておるけれども、やはり鹿の啼く声を聞くと、いわゆる人間の、そこんところを人間への郷愁というふうに表現さして頂く。それは人間への未練、我情我欲であった時分(自分)へのまだ未練が残っておる。いや思い出すという意味にお話を聞いてもらったんですけれども、果たして、そこまででも、人間と神様との間を行ったり来たりしながらでも、信心とは我心が神に向かうのを信心だということを信じて、そこは人間の、言わば、悲しさですから、また人間の郷愁をたまには思い出すでしょうけれども、本当は神様へ向こうて進んで行くというのが本当だということを、信ずることだということなのである。ですから、あらゆる難儀、難儀だけではありますまいけど、問題を捉えては、我心が神様へ一歩づつ進んで行く。
 運命を愛して行くことは、そのまま自分の心を大切にして行くことですから、腹も立てんで済む私、愚痴不足も言わんで済む私、それには邪魔になる我情我欲、人間の欲望というものをかなぐり捨てさせて頂けれる世界、そこに豊かな心の世界があり、そしてはじめて気が付かして頂くのは、成程この豊かな世界に住めば、この豊かな物の世界に住むことが出来るんだという体験。そこが神様が氏子に対するところの願いである。だから、私共も神様の願いとされる願いを願いとして行かなければならないということ。
 その歌の文句じゃないですけれども、本当に、浮世はなれて奥山住まいというか、人間から、言わば、我情我欲の世界から、欲を言わんで済む世界に進んで行くことが信心だと思うて、信心をしておるだろうか。我情我欲が自分の信心を駆り立てておるのじゃなかろうか。どうぞ商売が繁昌するように、どうぞ健康になりますようにということだけが、もし願い信心であるとするならばです、それは我情我欲が信心に駆り立てておることになるのです。
 信心とは、そのような、例えば、様々な問題を通して、一歩でも神様へ近付いて行くということ。自覚して行くことが信心だと思わせて頂くところまで、私どもの心がスキッとするというか進まなければならん。本当の信心は頂かれん。信心して、「自分の思うように神様にして頂きたい、いろんな苦しみから、その苦しいところから、ただ抜け出さして下さい」と言うて、願い縋りするだけの信心ならば、それは大した信心とは言えない。
 お道の信心は、どこまでも我心が神に向うて行くということ。それを私どもが気付かせて頂くということがです、実際の現実社会の様子等というものを見た時にです、それを見とって、「物だ、物だ。金だ、金だ」と言うふうに、物や金に明け暮れておる人達の姿が、実はある意味において、ある情意が出来た時に、気が付いた時には、心の貧しさ、そして物でも金でもなかったと気付かせて頂く時に、もう遅いというように、心がまた滅んで行ってしまわなければならない。
 信心はそこんところを、まず、心を豊かに、なら心を豊かにということは、私が申しますように、腹を立てんで済んだり、愚痴を言わんで済んだり、我欲をせんで済んだりするような、心が豊かな心の状態である。その豊かな心に、豊かなお恵みを受けて行くと、そういうことを、神様が言うて下さるのではない。まあ言うならば、そこのところを私は体験させて頂いて、私が皆さんにお話を聞いて頂くんです。
 そこで、神を信ずるということは、親先生の言われることを信ずるということ以外にはない。そして親先生が実際におかげを受けている姿を見るより外にはないということになるのですね。そのために、私どもが、我心が神に向かうということ。神様への憧念心というごたるふうに聞いて頂いた。いわゆる神様へ憧れを持つということです。そして人間の我情我欲の姿というものから抜け出るところの生き方。言うなら「人間よ、さようなら」である。そして言うなら、真の人間とでも申しましょうかね。
 ところが、私どもが痛い、痒いを、この生身で感ずるものですから、たまには鹿の啼く声を聞けば、恋もない、悋気もないと思うておっても、やはりそれを一つの郷愁的なもの、人間への未練が出ないわけはないけれども、そこんところを信心修行によって、神様への道をひたすらに歩ませてもらうというのが信心である。だから言うならば「人間卒業」とでも申しましょうかね。
 だから問題は、そこんところを行ったり来たりしてもです、そこんところがわかっておれば、もう必ず神様の方へ一歩づつでも近づいて行くことが出来る。それをただただ、神様へ向かうというような、神様にはならんでんよかと言ったようなこと、では、只人間の我情我欲を大きく太らせることのために、信心があるようなことになってしまう。
 そういうことで、よくおかげを受けても、それはまた心が行き詰まり、心が滅びてしまわなければならないということをです、私どもがわからせてもらうということが、神様を信ずることだと言うふうに思うのです。
 成程、それを、疑えば恐るべしと結んであるが、それを疑うて只信心しておっても、我情我欲のための信心であったら、それは恐るべしという結果にしかならないということです。
 昨日の教話の一番最後に申しましたように、私共の信心がどこに焦点がおかれて、どこに現在自分が立っておるかと、神様と人間氏子の丁度間仲に立っておると言うことは、「信心とは我心が神に向かうのを信心と言うのじゃ」とわかった人の姿である。そこに気付いた人の姿である。
 ところが、信心とは、只お願いをしておかげを頂くという、自分の我情我欲を満たすことだけのための信心であるならば、いわゆる神様への憧れを持たない姿であり、神へ向かうのを信心と言うのじゃというのでなく、おかげを頂くのが信心じゃということにしかなっていないということを申しましたですね。
 ですから、私どもが様々な問題をとらえては、そのことを通して、神様への手掛かりともさせて頂くところの姿勢をつくらねばいけないというのです。そこから成程、腹を立てんで済む、愚痴不足を言わんで済む、豊かな世界に住むことが出来る。そこから豊かな物にも恵まれるということになる。ここんところが大切です。
 ところが、まず物で栄えて、という我情我欲の貯めた上にも貯めさせてもらわにゃという欲望だけにかきたてられての。もしか、それが信心であったとするならば、それは言うならば、疑いは限りなし恐るべしということで終るんだと言うことになるのです。ひとつ、ここんところをどうでもひとつわからせてもらう。
 それこそ、今天地の開ける音を聞いて、目を覚まさしてもろうて、我心、神に向こうて行く、一つの憧れを以て、神様への一歩一歩の前進を楽しまして頂く生活を、本当の意味での信心生活だとわからせて頂いて、おかげを頂かせて頂きたいと思うですね。
どうぞ。